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masaの気ままな日記です。仕事や子育て奮戦から観光情報までその時々のこと思いのままに綴っていきます。
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ca107eee.jpg 知り合いの蒔絵師さんから「箱書きをお願いしたい人がいるんだけど書いてもらえますか。」との電話かありました。
「自分の字で良ければ書かせてもらいます。」と承諾しました。
箱書きの依頼主は、輪島漆芸研修所の卒業生でした。
漆の道に入ったきっかけは以前していた庭師の仕事と言う、とても面白い話を聞かせてもらいました。
県外から漆を求めこの地に来た彼は漆を生業としたいと願って頑張っている30代の青年です。
伝統工芸作品を作る作家ではなく、生きるための漆を目指したいと言う彼のまなざしに力強さを感じました。
こういった若者達が漆で生きていける温かい町になる事こそが「漆の里輪島」なのでないかと感じました。

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初TV出演


 この写真は1973年、当時自分が小学校5年生の時、初めてテレビ番組の収録に参加した物です。
インタビューのお相手は、輪島塗大向高洲堂の社長「大向 貢」氏(後の輪島市長)です。
この頃の大向高洲堂は、観音町にあり、自分の家のすぐ近くの公園側に店舗と工場が向かい合う形で建っていました。少し離れたところには社員寮もあり、毎朝、自分の家の前を社員の方が通って出勤するのを幼い頃から見ていました。

北陸放送が制作した番組で、輪島塗を紹介する教材番組として収録されました。そのインタビュアーとして自分と、同級生の女子二名が抜擢されました。
事前に台本を与えられ、収録日までに全てを暗記して収録に臨んだところ、声は映像を撮ったあとアフレコで台本を読みながらいれていいと言われ、初めてTV収録の裏側を知りました。(^0^;)

この頃は、昼休みになると社員さんやお弟子さんが公園脇でキャッチボールなんかしてました。また呂色に携わっている社員さんは仕事につかう為の「もみ紙」を作るため外に出て紙をもんでいました。

とても活気がありました。 後に自分が漆の業界に入るとはこの頃は思ってもいませんでした。
今年、この「大向高洲堂」が倒産。なんとも言われぬ思いがこみ上げてきます。

masaaki_0001_m.jpg


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「蒔絵組合地区委員」を久しぶりにすることになりました。
「地区委員」とは蒔絵組合からのお知らせの通達(配布物)や組合費の集金などをする係です。
自分が蒔絵組合に入った時、一番最初に与えられた仕事でした。
当時、自分が担当する蒔絵師は10件程、新米の自分が配布物を配りにいくと、仕事場に上げてくれて、色んな話を聞かせてくれました。
先輩方の体験談や、違った仕事をみることがとても刺激になりました。
 今回は、今まで地区委員をしてくれていた若い方が役員になったため自分が再帰した訳です。
しかし、引き受けておどろきました。担当蒔絵師は、自分を外すと2件のみ。
いろんな事情がかさなり組合員の数も激減しているのです。
先日、地区委員が集まり組合主催で懇親会が催され久しぶりに出席しました。
世代を超え色んな蒔絵師さんと話をしたのですが、どうも前向きな話をする人が少ない感じでした。
蒔絵青年会の現会長が、FaceBookについて自分に尋ねてきました。
どんな物なのかの概略を説明し、「後は自分がどう使うかだと思うよ。」と応えました。彼は「役に立ちそうで面白そうですね。」と言いましたがその横にいた青年は、「自分をネット上に出すなんて怖くて考えられない。」とのこと。でもtwitterはやっているそうです。
匿名だと発信できるけど自分の名前が出るのは怖いということなんでしょうか。
自分の描いた蒔絵や作品を発表、販売すると言うことは、その時点で自分をさらけだしているのではと自分は考えます。
作者自身に興味を持ってもらう、自分のファンを作っていくと言うことがこれからはとても大切な事だと思っています。
人それぞれでいいとは思うのですが、もう少しネットを使ってのPR、利用してもいいんじゃないかなーって思いました。

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蒔絵師として独立して25年あまり。
独立というと聞こえはいいですが、自分の場合、やむなく独立といった方が正しいですね。そんな自分の蒔絵師としての歩いてきた道、少しだけ紹介させてください。

普通科高校を卒業後、本当に何も解らず、蒔絵の弟子に入りました。
最初に出会った師匠はまだ30代の若い日展作家でした。
今でも健在ですが、輪島を離れ生まれた地に帰り蒔絵と家業の農家を継いでいます。普段はほとんど連絡を取ることもありません。
何故かは解りませんが、自分に対して親方として、何もしてやれなかったと言う負い目の様な物を持っているようです。

 年期開け後、親方に「漆芸技術研修所を受験したいのですが。」と言ったところ「蒔絵科を受験するつもりなのか?きゅうしつ科(塗り)を勉強するんだったら解らないでも無いが、今のお前の心持ちで蒔絵科を受験するのだったら、破門だ!」と言われました。
結局、親方の知り合いの蒔絵師が「漆芸研修所三年間分、俺が一年で身につけさせてやる!」と言われその蒔絵師の元で一から蒔絵を習うことにしました。
ところが、一年足らずで挫折。つくづく自分は蒔絵師に向いていないと落ち込みました。
それでも、その蒔絵師に「病気だろうが何だろうが、やりかけのこの仕事はお前の仕事だ!はってでも、家で最期まで仕上げろ!かかる材料は俺が持つ、しかし仕上がりが悪ければやり直しだ!」と言われ、寝る時間も削り、そのお椀(60客)を一ヶ月で仕上げ、その蒔絵師の元に持って行きました。
研ぎ、金の艶、上絵、全てを入念に見た後、「やれば出来るがい。」との一言。そしてその時、仕上げたお椀の蒔絵代と残った金粉、切り金などの材料を「これからお前が蒔絵をしていくのに使え!」といって自分にくれました。
先の師匠はもしかしたら研修所受験のことや自分が挫折したことを負い目にしているのかもしれません。
しかし、この一年あまりの辛い出来事が今もこうして蒔絵師として生きている自分の礎になっています。
自分は、こう考えています。結果として漆芸研修所はその後も受験すること無く今に至っていますが、求める気持ち、仕事に対する前向きな気持ちを持ち続けさえいれば色んな方法で自分に必要な事は身につけて行く事ができる。
そうして身につけて行く事が、実践で役立ち自分の本当の力になる。
師匠との出会いも含め、多くの色んな人との出会いが今の自分の力、財産になっています。
これからも出会うであろう多くの人達に影響を受けながら、蒔絵師として生きていたいと願っています。


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先日、呂色屋さん(塗り物の艶をあげたり、蒔絵を付けやすい様に蒔絵下にするしごと)を訪ねた時のことです。 蒔絵家紋を施した高蒔絵だったのですが、とても金色の照りが綺麗な仕事で、思わず、「平金だけど綺麗に磨き込んであるね-。」というと、呂色屋さんも「ここまで綺麗に光らせた仕事を出す蒔絵師さんはおらんねー。」とのこと。 さらに「中尾さん(最近若くして亡くなった蒔絵師さん)に習った職人さんやから。本当に綺麗に仕上げてくるよ。」とのこと。 中尾喜久二さんは小さな物から大きな物まで全てをこなせる、自分が人間的にも、仕事面でも尊敬できる蒔絵師さんでした。 亡くなった後もこうして、自分が築き上げた技術を誰かが伝えてゆく。 これが後生に伝統技術を残して行くことなんだと感じました。

いくつになっても、一つ一つの事を地道にしっかりとこなし身につけていくていく。それが自分自身の力にもなっていく物なんだと改めて思う出来事でした。

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誕生日:
1962/04/03
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 三日坊主の自分なので更新もブログの題名通り気まぐれですが時々覗いて下さいね。
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